思うこと・・
文化資産はお金になる知的財産。伝統産業は危機に瀕しているが、「文化」を扱うビジネスという視点で見直し、再び市場を活性化させたい。
2007/12/01
昔、地域活動をしているということで、新聞社の招きで北海道を4日ほど旅をしました。
作家のねじめ正一さん、歌手の高石ともやさん、そして郷土の漫画家、黒鉄ヒロシさんたちと道内をバスで移動し、道内の数箇所に寄ってその地域の人と意見交換をし、酒を酌み交わし地域づくりを語る、という企画でした。

ある九州の役場の部長さんという方と一緒になりました。アジアのある地域と積極的に交流している町です。
その彼がしきりに言っていたことが「文化では飯が食えん」ということ。それはまるで私たちへの挑戦状のようでした。

しかし、それから一晩の議論の中で、最後帰るとき彼が言ったのです。
「文化も必要とですかねぇ〜」

私たちとの一晩の議論の中で、彼は何を感じ、何を思ったのでしょうか?
結局何でそう思うようになったのか、理由を聞かずに別れてしまいました。

この言葉は村山裕三さんの言葉。村山さんは、同志社大学教授。

「田舎暮らしは”楽”ではない。でも"楽”しい」
2007/11/01
教育関係の冊子の巻頭に清水國明さんが取り上げられていました。清水國明さんは大学時代に「あのねのね」というフォークグループで芸能界にデビュー。50歳前後の方々には懐かしい人ではないでしょうか。
最近はアウトドアの活動で有名。その分野の塾も主宰しているようです。
当然本人も都会ではなく、田舎に拠点を移して生活をしています。

その彼が言った言葉。

同じ「楽」という漢字でも、表現の仕方、捉え方でまったく違った意味になります。

マイナスを嘆いてもプラスにはならない。一個のマイナスにもう一個のマイナスを縦にしてくっつければ、それはプラスになる。

そんな生き方をしたいものです。

農機具としての牛馬
2007/10/10
 田や畑のある昔の田舎の家には必ず「だや」がありました。「だや」とは牛舎(牛小屋)や馬小屋のことです。「駄屋」と書くのでしょうか。
 
 昔の資料を見ると、人間と牛や馬は一つ同じ屋根の下(座敷に人間、土間に牛馬)に生活していたようですが、私が物心ついたときには、人間は母屋(おもや:人が居住する場所)に、牛馬は「だや」に別々でした。

 以前の牛や馬は田や畑を耕す農機具であり、人や物を運ぶ運搬車(トラック)だったわけですが、化石燃料で動く、鉄でできたトラクターや自動車にとって変わられ、いまではそのような目的で牛馬を飼っている家は皆無でしょう。

 牛馬にはガソリンは不要ですが、毎日の草(えさ)が必要でした。それは農協や飼料店から買うのではなく、各家庭で調達しなければなりませんでしたから、、家族総出でできる限りの草を刈り、飼料としました。ですから昔の公道には、今のようにうっとしいほどの草は生えていなかったです。。

 今は誰も刈らないから、行政が税金で刈っています。そしてそれを、お金をかけてゴミとして捨てている、つまり、エネルギーとお金を使って 「資源」を捨てているのです。
 資源のリサイクルは、人間が人工的に作ったもの(たとえば紙やペットボトルなど)を循環させることだけではないでしょう。

 自然の産物も、また何かの形で人間が循環させる仕組みを作っていきたいものです。
 
※昭和30年代の日本に戻せば、この仕組みは自然に取り戻せる、というのが、私の持論ですが・・・・

自治体の住民への支援とは・・・
2007/08/28
※この文章は、3年ほど前に、県庁職員の対応にあきれて、思わず一部の方に送ったメールのやり取りを採録したものです。前段が私の送ったメールの内容、返信は、返事をくれた一部の方の内容です。




「やってみないとわからないものは支援できない」

これが地域づくりに取り組みたい県民の声に対する県の回答でした。
「成果が確実なものは支援するが、当てにならないものは支援などしない」ということでしょうか。。

資金が回収できる見込みがあれば貸付けるけど、見込みのないものには見向きもしない銀行と一緒です。

住民がみんなで一緒になって、やってみようとなったとき、あるのはほとんど情熱と夢だけです。
生産計画も資金計画も事業計画も初めからあるわけではありません。
地域を元気にしたいという、「熱い思い」だけです。

そういう人たちや、そういう思いを支援するのが市町村や県などの自治体職員の仕事だと思っています。

生産計画、事業計画、その根拠を論議する前に、彼ら彼女らに、一歩踏み出してみる勇気を与えてあげるのが使命だと思っていましたが、県という組織はそういうものではないらしいです。

やってみなければ分からないもの同士、知恵と工夫でまちをつくっていく、それが住民の姿ではないでしょうか。

それでも、県や国に生産計画、事業計画、その根拠を示せといわれれば、役所の人間なら文章にできます。体裁だけ整えるという無駄な時間を我慢してでも文字にすることが出来ます。

でもその役所の常識を、一般県民に求めるのは酷というものでしょう。

「それでもよそはちゃんとやってる」といわれる方は、間にたった役場の職員が、住民の声を「通訳」していることに気づいていらっしゃらない方です。

今まではそうしてきましたけど、今回は町民の方に直接説明してもらいました。
それ対する回答が、冒頭のものです。

人生は、やってみなければわからないものばかりです。


○返信1
メールありがとうございます。
「県」という、地元(=責任)を持たない行政組織ではこんな考えが強いかと思います。

市民(住民、企業、NPOなど)参加まちづくりで一番責任あるのは地元ですから、その最前線でがんばる方の負担は大きいと思います。
私達の「業界」でも、国や県など大組織について仕事をする会社と、地元重視の会社がありますが、私達はできるだけ地元密着の仕事をしたいと思っています。
どこの地方でもまちづくり財源の確保は大変ですが、行政に依存しない方法を生み出していく必要があります。今後国や県の財政はますます厳しくなっていくでしょう。
私が係わっている東京・神楽坂のNPOでも同じ課題に直面しており、助成金をもらって行なう事業の経費を削ってなんとか持ち出しをしないように努力している状況です。
どれだけ力になれるかわかりませんが、何とか道を開くべくごいっしょに取り組んでいきたいと思います。
「やってみなければわからない」
いいではありませんか!
全て結果が見えていることなら、誰でもできますよね。(おもしろくもなさそうだし...)

○返信2
辛いです。ホントに・・・今の県って

 あなたの言葉は、このところ私がモヤモヤしていたものをズバリ言い当ててくれました。

 今の県には、「成果が上がることが確実なもの」しか支援対象とはみなさない姿勢が(全てではないけれども)あります。カネのなる木にはせっせと水はやるが、どんな実がなるのか分からない木や、どんな花が咲くのか分からない種には、県は見向きもしません。悲しいかなこれが現実です。悲しすぎます・・・
 そんな木や種に支援をしようと言い出すことは「私は県職員として失格です」と表明しているかのような錯覚に陥っているようです。だから皆、ついつい腰が引けてます。

 「地域を良くしよう」という「夢」や「情熱」だけではメシは喰えん! って言うじゃなーい。
 でも、情熱や夢をもった人が地域にいることこそが、大きな財産ですから。 残念!!

 今、上司からは「机に向かっていてもアイデアは出ない。もっと地域に出向きなさい。」と言われています。
 で、「どこそこに行ってきたい」と申し出ると、「特区か地域再生の計画(又は提案)に結びつくことが確実なら出張命令出してあげるが、そうでなきゃ勝手に行ってきな」ってな具合で、軽くあしらわれます。

 こんなこともありました。
 交通政策課にいたころ、路線バスの買い換えに当たり、国庫補助制度があるのですが、交通バリアフリー法の関係もあり、「少々割高だけど、ノンステップバスにするなら、その分補助率もアップする」制度があり、これの導入を財政課に協議したら、帰ってきた答えが、「で、車椅子での利用者が現状で何人あり、ノンステップにすると、何
人まで増えるのか?」だって。
 分かってない、全然分かってない!! 膝の痛いおばあちゃん、赤ちゃん連れのママ、盲導犬に頼る障害者・・・いろんな人にメリットがあるでしょ。数字にしないと理解できないの?

 闇融資事件みたいな不祥事があって、「成果第一」「説明責任」がクローズアップされたのは分かりますが、県や市町村、はたまた国という役所の力だけではどうしようもない問題に、住民とともに立ち向かうのであれば、「確たる事業計画がないものは、具体的な取り組み内容を聞くまでもなく却下」なんて態度ではいられないはずですけどね。
 お堀の中にいる「幹部」という民族には、日々地域住民とともに、地域住民として仕事をして、悩み苦しんでいる多くの自治体職員のことはどうでもいいことなのでしょうか?

 やる前から成果が分かっている事業って、一体どんなものでしょう。やっててワクワクするでしょうか。そこに仲間は集まるのでしょうか。是非県の方に聞いてみたい。


○返信3
読んでいて、ある地方の実業家の話を思い出しました。
その人が起業したての頃の話です。
ある県が起業支援のための補助金制度を作ったと聞いたので早速申し込みに行ったところ、県の担当者から「補助金を受けるためには、今までの実績を出してください」と言われたそうです。
彼が「はぁ?これって起業支援の補助金ですよね?私は起業したてだから、お見せできるほどの実績はまだありませんが。」
それに対して担当者は、「実績がないところには補助金は出せません」

どこかで聞いたような話ですよね。
ちなみに、その彼の(ウェブ関連)事業は成功して、ここ数年間の平均年商2億数千万円になっています。

結網
2007/08/17

高知が生んだ偉大な植物学者、牧野富太郎。
彼が終生もちいた号が「結網」です。
由来は中国の歴史書「漢書」の一節
「古人いうあり。渕に臨んで魚を羨(うらや)まんよりは、退(しりぞ)いて網を結ぶに如(し)かず。」

「物事に臨んで手をこまねいているより、手段を見つけてまず実行してみる。」という意味だそうです。

成功したまちづくりを見て人々は「あそこだからできた」「運がよかったのだ」といいます。
まちづくりを語るとき、「ああすべきだ、こうすべきだ」「あれをやったらいい、これをやったらいい」という人は大勢います。
でも自分から実行する人は、なかなかいません。

いつも責任のない位置に立ち、評論を繰り返す人はもう要りません。まずやってみる実行してみる人が要るのです。

これからのまちの力(地域力)は、学者や評論家の数ではなく、実践者の数で決まります。



ユビキタス(Ubiquitous)
2007/07/10
半島らしい暮らし・産業創生調査の審査員の一人である、関根千佳氏からご著書をいただきました。
タイトルは『スローなユビキタスライフ』(地湧社刊)。
表紙をあけたら、「ユビキタスとは?」としてコメントが添えられていました。

ユビキタスとは?
「もともとは『神はあらゆるところに存在する』という意味のラテン語が語源。/携帯電話、ビデオ、洗濯機、/ICカード、駅の自動改札、エレベータ、/銀行のATM、自動販売機、ゲーム機など、/生活環境の中に存在する/無数のコンピュータ同士をつなぐことを/「ユビキタス・コンピューティング」という。」

ユビキタスの例として一番先に携帯電話があげられています。
もうほとんどの人が持っている携帯電話。当初の”コードのない持ち運べる電話”としての機能から、電子メールやインターネットなどで、今では人々の手のひらは、世界中の無数のコンピュータとつながっています。
まさに携帯電話は、ユビキタスの代表選手と言っていいでしょう。
ほとんどの人にとって、携帯電話はいつでもどこでもつながるのが当たり前であって、何かのトラブルで少しの時間でも繋がらなくなると、電話会社には苦情が殺到しますし、”圏外”という表示が現れただけで精神的に不安になるという、携帯電話依存症ともいうべき症状が現れる人もいるということです。

私たちが住む地域は、携帯電話の電波が届きません。もちろんブロードバンドではありません。一応フレッツですが、ナローバンドでしかありません。

誰も来ない田や山の中で仕事をしているときに、もしここで転倒しトラクターの下敷きになったら、もし今草刈機の刃で大怪我をしたら、絶対自分はここで死んでしまうだろう、と思うことがあります。
携帯電話が通じたら、動けなくなっても電話ができます。救急車を呼ぶことができます。しかし、どこに立っても「圏外」しか表示しない携帯電話は、デジカメ機能は使えても、本来の機能はこの地では役に立ちません。

老いた母親が一人暮らしをしています。まだ元気なので毎日田畑に出ていますが、高齢のうえに、山畑や田の岸は足元が良くないので、いつ転倒したり滑り落ちたりするかも分かりません。安心のために携帯電話を持たせたいと思っても、役に立ちませんから意味がありません。

人口の少ない地域に社会的インフラを整備するのはもったいない、という都市生活者の理論が世間に蔓延しています。そんな人たちには、ふるさとに父や母、兄弟や親戚を残してはいないでしょうか。ふるさとに残した父や母のことを心配していないでしょうか。
心配になったときに、老いた父や母の様子が分かれば、これほど安心することはないでしょう。

そんな心配から、自分の父や母に携帯を与え持たせている、という方も大勢います。

ということは、地方で携帯電話が通じるようにするのは、地方に住む人だけのためではなくて、地方に大好きな人を残してきた都市生活者のためでもある、ということです。
そういうふうに考えると、携帯電話の不通エリアの解消は、地域ごとの住む人の数で判断するのではなくて、オールジャパン共通の基準で整備していくべきだと思います。

ユビキタス社会といわれながら、その最低の基準さえも与えられていない私たちの地域に、”神”は存在していないのです。
(C) since2007 橘川中山間生産組合